年表

西暦 年齢 出来事
1756 0 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1月27日午後8時、ザルツブルクのゲトライデガッセ9番地のハーゲナウアーの持家の4階で生まれる。父レオポルトはザルツブルク大司教の宮廷ヴァイオリン奏者。母はアンナ・マリア(旧姓ペルトゥル)。7番目の、そして末子である(ただし成人まで生き残ったのはモーツァルトと姉ナンネルのみ)。レオポルト、『ヴァイオリン教程』を出版する。
1759 3 姉ナンネルのレッスンに興味を示し、自らもクラヴィーアを弾く。三度と六度の和音を弾き当て、天才の片鱗を見せる。
1760 4 レオポルトによるクラヴィーアのレッスンが始まる。使用教材は『ナンネルの楽譜帳』。
1761 5 レオポルトの前で即興演奏する。感激した父は『ナンネルの楽譜帳』の余白にそれらを書き取る。これが最初の作品として知られるクラヴィーア小品である(K.1a、1b)。
1762 6 1月12日、父、姉とともに初めての旅行でミュンヘンへ。ナンネルとともにバイエルン選帝侯の前で演奏を披露する。9月18日、母を加えた一家4人と写譜師エストリンガーでウィーン旅行へ。シェーンブルン宮殿にて皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの御前で演奏。賞賛を得る。
1763 7 1月5日、ザルツブルクに戻る。2月28日レオポルト、ザルツブルク宮廷楽団の副楽長に就任。6月9日、一家4人と従僕ヴィンターで西方大旅行に出発。ミュンヘン、アウグスブルク、ドイツ諸都市、ブリュッセルを経て11月、パリに到着する。ラモーなどのフランス・オペラに接する。また、鍵盤楽器の名手ヨハン・ショーベルトや百科全書派のフィロゾーフ、グリム男爵などと知り合う。
1764 8 元旦にヴェルサイユに赴き、ルイ15世へ拝謁。2月には、フランス王女に献呈されたクラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ集(K.6、7)を出版。これがモーツァルトの初めての出版作品となった。4月23日、ロンドンに到着。27日、国王ジョージ3世と王妃に謁見。7月、父が重い病気にかかる。療養のため、8月上旬から9月末までロンドン郊外のチェルシーで過ごす。ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(音楽の父、大バッハ)の末子で作曲家のヨハン・クリスティアン・バッハ(ロンドンのバッハ)と親しく接する。
1765 9 2月、最初の交響曲、第1番変ホ長調(K.16)を初演。7月、ロンドンを出発、デン・ハーグに到着。ここで姉弟は重病にかかる。
1766 10 デン・ハーグから1月、アムステルダムを訪れた後、6月、パリを再訪する。その後リヨン、ドイツ各地を経て11月29日、ザルツブルクに帰郷。
1767 11 3月12日、ドイツ語オラトリオ《第1戒律の責務》(K.35)が初演される。これはザルツブルクの第一級の作曲家との合作で、モーツァルトは第一部の作曲を担当した。9月11日からは一家で第2回ウィーン旅行へ。10月、ここで姉弟は天然痘に感染、異国での闘病生活を送る。
1768 12 マリア・テレジア、皇帝ヨーゼフ2世に拝謁する。皇帝のすすめで、春から夏までに自身最初の歌劇《ラ・フィンタ・センプリーチェ(見てくれの馬鹿娘)》(K.51)を作曲。しかし、妨害のために上演は果たされず。レオポルトは皇帝に上演許可の直訴状まで書くが、結局、ウィーンでの上演はできなかった。
1769 13 1月5日、ザルツブルクに帰郷。5月には《ラ・フィンタ・センプリーチェ(見てくれの馬鹿娘)》(K.51)が大司教の宮殿でようやく上演される。10月27日付で、モーツァルトは宮廷楽師長(コンサートマスター)に任命される。無給ではあったが、時の大司教シュラッテンバッハの厚遇を示すものと言って良い。12月13日、父と二人で第1回イタリア旅行へ出発。
1770 14 1月、ヴェローナで最初の演奏会を開く。2月、ミラノでピッチーニ、サンマルティーニと知り合う。3月、ミラノのオペラ劇場のためにオペラを作曲する契約を結ぶ。ボローニャでマルティーニ神父を訪ねる。4月、フィレンツェを経てローマに着く。ヴァティカンのシスティーナ礼拝堂で門外不出の曲アレグリの《ミゼレーレ》を1度聴いただけで覚えてしまう。これは天才を示すエピソードとして有名。7月、教皇クレメンス14世から黄金の軍騎士勲章を授与される。これは音楽家では2人目という栄誉である。10月、マルティーニ神父から対位法の指導を受ける。ボローニャでアカデミア・フィラルモニカの会員となる。12月26日、ミラノでオペラ《ポントの王、ミトリダーテ》初演、好評を博す。
1771 15 2月、ミラノを発ち、ベネツィア、インスブルックを経て3月28日にザルツブルク帰郷。8月13日に父と2回目のイタリア旅行へ出発。10月17日、ミラノで《アルバのアスカーニョ》を初演。ザルツブルクに戻った翌日の12月16日、シュラッテンバッハ大司教が死去。
1772 16 3月14日、新大司教にコロレド伯爵が選出される。コロレドはイタリア人音楽家を厚遇するため、モーツァルトは徐々に彼を嫌うようになっていく。それでも、8月21日には有給(年棒150フロリン)の宮廷楽師長(コンサートマスター)に昇進している。10月24日、第3回イタリア旅行へ。12月26日、ミラノで《ルチオ・シッラ》を初演。
1773 17 ミラノでの就職活動が失敗に終わる。3月13日、ザルツブルク帰郷。7月14日には第3回ウィーン旅行へ。8月5日、女帝マリア・テレジアに拝謁。密かな就職旅行であったが、事は上手く運ばず、9月26日には帰郷。その直後に、旧市街の「タンツマイスターハウス」へ引っ越し。
1774 18 珍しくどこにも旅行に出かけず、宮仕えの日々。しかし、12月6日には父とミュンヘンへ。度重なる旅行がモーツァルト親子の「勤務評定」に影響を与えたのは間違いない。
1775 19 1月13日、ミュンヘンで《偽の女庭師》(K.196)初演。3月7日、ザルツブルク帰郷。1777年9月までの2年半、故郷に留まったままの生活を送る。
1776 20 宮廷での職務だけでなく、ザルツブルクの貴族・市民のための音楽を多く作曲しているが、おそらくストレスは溜まるいっぽうであっただろう。
1777 21 3月14日に大司教に休暇願を出すも却下される。8月には辞職願を出して背水の陣を敷き、9月23日、母と二人で就職のための「マンハイム・パリ旅行」へ。立ち寄ったミュンヘンではバイエルン選帝侯に就職活動するが失敗。アウグスブルクに立ち寄り、従妹のマリア・アンナ・テークラ(ベーズレ)と知り合う。10月マンハイムに到着、カンナビヒら多くの作曲家と知り合うが、就職活動は失敗。
1778 22 マンハイム宮廷楽団のバス歌手の次女でソプラノ歌手の卵、アロイジア・ウェーバーに恋をする。マンハイムに残りたかったが、2月、父に叱責されてパリに発つ。3月23日、パリ到着。5月、ヴェルサイユの宮廷礼拝堂オルガン奏者の地位を打診されるが、なぜか固辞してしまう。7月3日、同行の母アンナ・マリアが病死。9月26日、パリを出発。マンハイムに行くが、すでにアロイジアはミュンヘンへ。12月下旬、彼女を追ってモーツァルトもミュンヘンへ行くが、同地であえなく失恋。
1779 23 1月半ば、従妹のベーズレを伴ってザルツブルク帰郷。屈辱的ではあるが、大司教に復職願を提出。受理され、宮廷オルガン奏者に就任(年棒450フロリン)。これ以降、2年近くザルツブルクでの生活が続くことになる。9月、ウェーバー家、ウィーンに移りアロイジアはウィーン・オペラと契約する。
1780 24 夏にバイエルン宮廷よりオペラ《イドメネオ》(K.366)の依頼が舞い込む。久しぶりの旅行にオペラ作曲で、11月5日からのミュンヘン旅行はうれしかったに違いない。
1781 25 1月29日、ミュンヘン宮廷劇場で《イドメネオ》(K.366)初演。3月12日、大司教の命令でウィーンへと旅立つ。5月、ウェーバー家に移り住む。コロレド大司教から帰郷命令が下りるがこれを拒否。大司教と完全に決裂し、6月8日、アルコ伯爵に足蹴りされ、ザルツブルク宮廷楽団を解雇される。ウィーンに住むことを決意。いよいよ、ウィーンで独立独歩の生活に突入する。
1782 26 4月、音楽愛好家のヴァン・スヴィーテン男爵と知り合いバッハ、ヘンデルなどの作品に接する。この頃からフーガの習作を数多く作曲することになる。7月16日、ブルク劇場で《後宮からの誘拐》(K.384)を初演。このオペラはモーツァルト最大のヒット作となる。8月、父親の許しが得られないままコンスタンツェ・ウェーバー(アロイジアの妹)と結婚。
1783 27 1月、ロレンツォ・ダ・ポンテに出会う。3月、ブルク劇場における主催演奏会は皇帝ヨーゼフ2世の臨席も得て大成功。ウィーンにおけるモーツァルトの人気を象徴する演奏会となった。6月17日、長男ライムント・レオポルトが生まれるが8月に喪う。7月末、コンスタンツェとともにザルツブルクへ里帰り。父と姉を訪ねる。10月ザルツブルクを発ってリンツに着く。12月、ウィーンに戻る。
1784 28 2月、ウィーン着。予約演奏会などを自ら主催し、活発な作曲・演奏活動を行う。ピアノ協奏曲、ピアノ五重奏曲などの初演はいずれも大成功で、予約演奏会の予約者数は174名に達した。同じく2月、『自作品目録』の作成開始。最初の曲は「ピアノ協奏曲第14番変ホ長調」(K.449)であった。8月23日、姉のナンネルが結婚。9月21日、次男のカール・トーマスが誕生し、超都心の「フィガロ・ハウス」へ引っ越す。12月14日にはフリーメイソン・ロッジの「慈善」に入会。
1785 29 1月15日、ハイドンを自宅に招き「ハイドン・セット」のうち3曲を披露する。2月11日、父レオポルトがウィーンへやって来て「ピアノ協奏曲第20番」(K.466)を披露する。ハイドンを再び招き、「ハイドン・セット」の残り3曲を披露する。父は高名なハイドンから息子の才能を誉められて有頂天になる。4月、レオポルトがフリーメイソンに入会する。6月、ゲーテの詩によるリート「すみれ」(K.467)作曲。9月には「ハイドン・セット」が出版される。
1786 30 2月7日、ヨーゼフ2世の依頼でシェーンブルン宮殿にて、サリエリとの競演のための演し物《劇場支配人》(K.486)を初演。5月1日、ブルク劇場で念願のイタリア語オペラ《フィガロの結婚》(K.492)を初演し、大成功を収める。10月18日、三男ヨハン・トーマスが生まれるが、翌月死亡する。
1787 31 1月、プラハに夫婦で招かれる。《フィガロの結婚》(K.492)上演に立ち会う。国立劇場で「交響曲第38番「プラハ」」(K.504)初演。大成功を収める。同地でのモーツァルト人気の凄さに喜ぶ。プラハの興行師から新作オペラの作曲を依頼される。2月12日、ウィーンに戻る。5月28日、父レオポルトが死去。10月1日、妻とプラハに出発。29日、国立劇場で《ドン・ジョバンニ》(K.527)の初演。大成功を収める。11月16日ウィーンに帰る。シェルター通りに転居。12月7日、オーストリア皇帝ヨーゼフ2世から、ウィーン宮廷室内作曲家の称号を受ける(年棒800フロリン)。仕事が多くない割に、実入りの良いポストを得たのだった。27日、長女テレージアが誕生(翌年6月29日に死亡)。
1788 32 経済状態が悪化。2月頃友人プフベルクへの初めての無心状が書かれる。6月、ヴェーリンガー通りに転居。6月末から8月にかけて最後の3つの交響曲「交響曲第39、40、41番「ジュピター」」(K.543、550、551)が完成される。12月、ブルク劇場で《ドン・ジョバンニ》(K.527)上演。
1789 33 1月初旬、ユーデン広場に転居する。舞曲を多く作曲する。3月、ヘンデルの《メサイア》を編曲し初演する。4月8日、カール・リヒノフスキー侯爵と共にプラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ポツダム、ベルリンへの旅に出る。5月、ベルリンでプロシア王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世からの弦楽四重奏曲とピアノ・ソナタの作曲を依頼される。6月4日、ウィーンに帰る。7月、妻が重病にかかる。療養のためにバーデンに行く。経済状態がさらに悪くなる。8月29日、ブルク劇場で《フィガロの結婚》(K.492)を再演する。10月ヨーゼフ2世より《コシ・ファン・トゥッテ》(K.588)の作曲を依頼される。11月16日、次女アンナ・マリアが生まれたがすぐに死亡する。
1790 34 1月26日、ブルク劇場で歌劇《コシ・ファン・トゥッテ》(K.588)初演。経済状態が最悪となる。2月20日、皇帝ヨーゼフ2世死去。5月、フランツ大公に宮廷副楽長の地位を請願するが失敗。7月、ヘンデルの作品2曲を編曲する。9月23日、フランクフルトに旅行する。レオポルト2世戴冠式記念演奏会を開く。11月下旬、ウィーンに帰る。12月14日、ロンドン旅行を翌日に控えたハイドンと別れの夕食をともにする。仕事の依頼が少ないのか、創作意欲も落ちたのか、この年の作品数は驚くほど少ない。
1791 35 3月、クラリネット奏者ヨーゼフ・ベーアの演奏会で「ピアノ協奏曲第27番」(K.595)を演奏する。5月9日、聖シュテファン教会の副楽長(無給)に就任する。シカネーダの依頼により歌劇《魔笛》(K.620)の作曲を始める。7月、《レクイエム》(K.626)の作曲を依頼される。レオポルト2世のボヘミア王戴冠式のためのオペラ《皇帝ティートの慈悲》(K.621)作曲を依頼される。26日、四男フランツ・クサーヴァー誕生(後に音楽家となる)。8月26日、妻と弟子のジュースマイヤーを伴ってプラハに旅立つ。9月6日、《皇帝ティートの慈悲》(K.621)初演。ウィーンに帰る。9月30日、ウィーン郊外のヴィーデン劇場で歌劇《魔笛》(K.620)初演。大好評を博す。11月17日、フリーメイソン礼拝堂完成を祝うカンタータ、K.623を指揮する。前年のヒマさ加減が嘘のように、膨大な仕事をこなしていたが、11月20日病床に伏す。12月5日、午前0時55分、モーツァルトは亡くなった。《レクイエム》(K.626)などの未完の仕事を残したままで。6日、聖シュテファン大聖堂で最後の祝福を受け、同日か7日、ウィーン郊外の聖マルクス墓地に埋葬される。

【参考文献】
・大原哲夫 著(2008年) 「田辺秀樹教授は語る」『dankaiパンチ』(2008年12月号) 株式会社飛鳥新社
・西川尚夫 著(2005年) 『作曲家◎人と作品 モーツァルト』 株式会社音楽之友社
・安田和信 著(2006年) 「転機でたどるモーツァルトの生涯」『音楽の友』(2006年1月号) 株式会社音楽之友社
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