モーツァルトの生涯

索引
・ザルツブルクの神童
・シェーンブルン宮殿での演奏
・西方大旅行
・妨害でオペラの上演は不能に
・イタリア旅行
・悲しみの淵に追いやられた母の死と失恋
・自由を求めてウィーンへ
・コンスタンツェとの結婚
・充実した日々
・栄光と挫折と
・魂が浄化するような晩年の作品
・レクイエム

ザルツブルクの神童

 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年1月27日午後8時に現在のオーストリア、ザルツブルクのゲトライデガッセ9番地にあるヨーハン・ローレンツ・ハーゲナウアーという商人の持ち家の4階で生まれた。翌28日に洗礼を受け、洗礼名をヨハンネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオフィルスといった。テオフィルスのラテン語読みがアマデウスである。父親はアウグスブルク出身、ヴァイオリンの名手で、すぐれた教育者でもあったレオポルト。彼は謹厳実直で幅広い教養を持ち、勉強にも仕事にも熱心な性格だった。母親はザルツブルクに近いヴォルフガング湖畔の村、ザンクト・ギルゲン出身のアンナ・マリア。彼女は素朴で快活、冗談好きで庶民的な性格だった。このふたりの結婚生活はとてもうまくいき、モーツァルトの家庭はいつも明るく、音楽が満ちあふれていた。
 モーツァルトには4歳半上の姉ナンネルがいて、レオポルトは彼女に小さい時からクラヴィーア(ピアノの前身)の指導をしていた。ナンネルが8歳になった時、父がピアノを教えていると、3歳のモーツァルトが横から手を出して、鍵盤の上に三度の和音を作って楽しんだという。ナンネルの弾くクラヴィーアをいつも聴いていた幼いモーツァルトはたちまち旋律を覚えてしまい、1年あまり経つとクラヴィーアだけでなくヴァイオリンも弾けるようになった。5歳になった時には初めて《クラヴィーアのためのアンダンテ》ハ長調K.1aという曲も作っている。
 神童誕生の噂は小さな田舎町をまたたくまに駆け巡り、レオポルトは天才の子を持つ父親としての使命に目覚め、広くこの才能を人々に知らせるべきだと考え、二人の子供を連れて1762年1月12日演奏旅行に出ることになる。モーツァルトがまもなく6歳になる頃である。モーツァルトが初めての御前演奏をしたのはミュンヘン。モーツァルトとナンネルはときの選帝候・ヨーゼフ・マクシミリアン3世の前で演奏するチャンスに恵まれ、確かな手ごたえを得た。これに気をよくしたレオポルトは音楽の都ウィーンへと旅立つ。1762年9月18日ことである。これがモーツァルト一家の大演奏旅行の始まりとなった。当時のウィーンは、神聖ローマ帝国皇帝ハプスブルク家の宮廷があった。

シェーンブルン宮殿での演奏

 ウィーンには神童の噂はすでに伝わっていて、王侯貴族からの招待が相次いだ。そしてついに当時のヨーロッパで絶対的権力を握っていたハプスブルク王朝の“泣く子も黙る”と恐れられた女帝マリア・テレジアと夫君皇帝フランツ1世からの招待状が舞い込んだ。シェーンブルン宮殿での演奏である。ここでモーツァルトは一本の指だけで演奏したり、鍵盤の上に覆いをかけさせられて演奏をした。それを聴いていた一同は腰を抜かさんばかりにびっくりしたという。そして、弾き終わったモーツァルトは、マリア・テレジアの膝の上にぴょんと飛び乗り、かわいい仕草でキスをした。皇帝と女帝はこの少年をいたく気に入り、立派な礼服を贈っている。また、モーツァルトは宮殿の鏡のようにピカピカに磨き上げられた床を歩き慣れていなかった為か、ツルリと足を滑らせ転んでしまった。すると、居並ぶ皇子や皇女たちの中から一人の少女が走り寄ってきて、彼を助け起こした。モーツァルトは礼を述べるとすかさずにこう言った。「君はとても親切だね、僕が大きくなったら君をお嫁さんにしてあげるよ」。モーツァルトがこの時、臆面もなくプロポーズした少女こそ、後にフランス国王ルイ16世の王妃となり、断頭台の露と消えたマリー・アントワネットその人だった。当時彼女はまだモーツァルトより一つ年上の7歳だった。

西方大旅行

 ウィーンでの成功はレオポルトに次なる長期演奏旅行の計画を立てさせた。1763年6月ドイツ、フランス、イギリス、オランダなど西方をぐるりと回るものだった。ヨーロッパの宮廷を総ナメにしてしまおうというのである。一行は、両親と姉のナンネル、そしてモーツァルトの4人。それこそ一家をあげての大キャラバンである。フランクフルトでは、聴衆の中に当時14歳のゲーテがいて、深い感動で神童を見つめていた、というエピソードもある。
 11月にはパリに着いた。パリはヨーロッパ一の勢力を持ち、繁栄を誇るルイ王朝のお膝元で、ヨーロッパはすべてパリを中心に回っていたから、パリを征する者がヨーロッパを征する者であった。親子はルイ15世の主催する〈大宴会(グラン・クベール)〉と称する祝宴の席に招待され、1764年元日にヴェルサイユ宮殿でモーツァルトは例によって神童ぶりを発揮した。さらにヴィクトワール王女とテッセ伯爵夫人から作曲の注文を受け、計4曲のヴァイオリン伴奏付きのピアノ・ソナタを作って献呈した。この譜面はパリで出版された。ときに8歳、彼の出版第一号である。
 1764年4月にはパリを出てイギリスに向かい、ロンドンではバッキンガム宮殿に招かれ、国王ジョージ3世と、シャルロッテ妃の前で演奏した。ロンドンには〈王妃の楽長〉と呼ばれているヨハン・クリスティアン・バッハ(ヨハン・セバスティアン・バッハの末子)がいたが、バッハはモーツァルトを膝に乗せて連弾をしてくれた。また、ロンドン滞在中に父が病気になり、結局は1年半も滞在することになるのだが、その間にモーツァルトは、バッハの指導で、初めて交響曲を作曲するようになった。8歳から9歳にかけて、ロンドンで4曲の交響曲が作曲されている。
 この後、一家はオランダに招かれたが、そこでナンネルとモーツァルトは腸チブスにかかり、生死の間をさまよった。命をとりとめると一家はパリに戻り、フランスからスイス、ドイツを通って、ザルツブルクに帰りついた。
 一家が故郷に戻ったのは1766年11月29日のことだった。実に3年半にわたる長旅で7歳だったモーツァルトはもう10歳になっていた。この時代の足は何といっても馬車が頼り。時速15キロの超スローな速度に加え、揺れがひどいといわれる馬車の旅は、幼いモーツァルトの体を蝕み病気はしょっちゅう。彼の背が伸びなかったのもこれが原因ではないかといわれている。
 しかし、モーツァルトの心は異国の空気を吸い、未知の風景に出合い、計り知れないほどの多くのものを吸収していった。「少なくとも芸術に携わる人は、旅に出ない人は不幸です。才能ある人は1ヵ所にいたらダメになってしまいます」という手紙を残しているように、モーツァルトは生涯旅を続け、その日数は人生の3分の1というウエイトを占めている。

妨害でオペラの上演は不能に

 この少年期の大旅行の総決算は、表向きは大成功であった。天才少年モーツァルトの名はヨーロッパの隅々にまで聞こえた。これでこの子が成人後、どこの宮廷に行っても就職させてくれるであろうと父は考えた。また各地を歩くことにより、その土地の巨匠たちの音楽を学ばせることができた。いまや11歳のこの少年はどんなスタイルの音楽でも書くことができる・・・・・・。
 1767年秋、ウィーンで王家の婚礼が行われると聞いたレオポルトは、11歳のモーツァルトを連れてウィーンに行った。こういう機会に祝典行事が行われる。その折に息子にオペラでも書かせてもらえないか、というのがレオポルトの狙いだった。
 当時は、教会音楽を除けば、もっとも重要なジャンルはオペラであった。音楽家はオペラが書けて、初めて一人前となるのである。当時、交響曲というのは音楽会の前後に演奏される、いわば序曲のようなものでまだまだウェイトは軽かった。
 だが、ウィーンに着いてみると、婚礼をするはずの王女は天然痘で急死してしまい、レオポルトの狙いは空振りに終わった。そのうちモーツァルトとナンネルも、流行っていた天然痘にかかり、命の危うい思いをした。回復後、レオポルトは、モーツァルトびいきの若き皇帝ヨーゼフ2世に頼んで、オペラを書かせてもらうことにした。そして12歳になったモーツァルトは、イタリア語によるオペラ・ブッファ(喜歌劇)《見てくれの馬鹿娘》K.51(46a)を書きあげた。しかし、宮廷劇場の関係者は、いろいろ策謀をめぐらせてこのオペラの上演を阻止してしまった。宮廷劇場を取り囲む連中は、12歳の少年に、オペラの世界で成功されたのでは、自分たちのメンツが立たなかったのである。まさに世は“出る杭は打たれる”のであった。

イタリア旅行

 18世紀のヨーロッパといえば、どこに行ってもイタリア・オペラが幅をきかせていた時代。当時、イタリアは音楽の先進国であった。1769年12月13日箔をつけるためにレオポルトと13歳のモーツァルトはイタリア旅行に出発した。モーツァルトは、ローマの教皇クレメンス14世から名誉ある黄金拍車勲章を授かったり、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカという権威ある音楽団体の会員資格を与えられたりとたいそう有名になった。しかし幼年期の特筆すべき事実は、バチカンのシスティーナ礼拝堂で聴いたグレゴリオ・アレグリの《ミゼレーレ》を、たった一度聴いただけで書き取ってしまったということだろう。4声と5声の二重合奏によるこの曲は門外不出の秘曲とされていたものだった。
 私がモーツァルトのイタリア旅行の中で一番印象に残っている出来事が、フィレンツェで14歳の同い年のイギリス出身の神童・トーマス・リンリとの出会いである。この少年はヴァイオリンを弾き、作曲もした。モーツァルトとリンリの二人はすぐに意気投合して一緒に演奏をしたり作曲を見せ合ったりした。モーツァルトははじめて同い年くらいの音楽家と心を通わせる友達になったのではないだろうか。二人の天才児は、《子供ではなく大人の友情に結ばれた》よきライヴァルだ、とレオポルトは観察している。けれどもモーツァルトは旅を続けなければならない。いよいよお別れという時、リンリは泣きながら、心のこもった長い詩をモーツァルトに手渡し、フィレンツェの町外れまで馬車に付いてきた。二人は長いこと手を振り合った、二人とも激しく泣きじゃくりながら。その後二人は2度と会うことはなかった。リンリは1778年に、乗っていた船が沈んで、溺れて死んだ。わずか22歳という若さだった。

悲しみの淵に追いやられた母の死と失恋

 17歳になった青年モーツァルトは、父と同じくザルツブルクの宮廷のお抱え音楽家となり、貴族や上流社会の市民からの依頼に応じて社交的な音楽を作っていた。《ハフナー・セレナーデ》K.250(248b)や多くのディヴェルティメントなど楽しい曲がどんどん生まれた。
 ザルツブルクは「ドイツのローマ」と呼ばれるほどイタリア色の強い町。ローマ教皇が任命する大司教が全権力を握っていたこの町に、1772年のある日、新しい大司教がやってきた。その名はヒエロニュムス・コロレド。モーツァルトとの運命の出会いの日である。
 コロレドとモーツァルトは初めから相性が悪かった。この大司教に少しばかり音楽の素養があったことが災いしたのかもしれない。かたや天才の名を欲しいままにした若いモーツァルト。コロレドの目には鼻もちならない生意気な小坊主と映っただろう。それにモーツァルトはオペラが作りたくてうずうずしていたため、求職願いを出してはよその地に職を捜しに行くようになった。だが、どこもモーツァルトを必要とはしてくれなかった。
 1777年、21歳になったモーツァルトは母と共に職捜しの旅に出た。最終目的地はパリ。途中アウグスブルクでいとこのペーズレに会う。モーツァルトはだじゃれ大好き人間。残された手紙にもたわいのない冗談が見られるが、彼女に宛てては下品な悪ふざけやスカトロジーをいっぱいちりばめた文を書いた。
 次なるマンハイムでも就職活動を試みるが、うまくいかない。しかしここでモーツァルトは宮廷音楽家ウェーバー家の次女、当時16歳のアロイジアに恋をし、彼女の歌声とピアノにすっかり心を奪われてしまう。モーツァルトは、アロイジアに熱心にレッスンをつけてやり、やがて、彼女を一流の歌手にしたてあげて、一緒にイタリアへ行きたいと言い出す。これを知った父は、叱責の長い手紙を息子に書いている。「旅の目的は永続きする勤め口を捜すことだ。パリに立ちなさい、今すぐにだ!」。神様の次に偉いと思っていた父親の命令にはモーツァルトは逆らうことができず、後ろ髪を引かれる思いでパリに向かったのであった。
 パリでも15年前の神童は忘れられてしまっていた。しかもここで旅の疲れが出た為か、母のアンナ・マリアが病気になり、半月ほど寝込んだすえに、1778年7月3日の深夜に息をひきとった。モーツァルトは大変なショックを受け、泣く泣くアロイジアに会いに行くが失恋。すでにソプラノ歌手として華やかなスタートをきっていた彼女はモーツァルトのことなど相手にしてくれなかった。彼が味わった初めての恋の味は、実に苦いものであった。モーツァルトは二重三重の悲しみにくれながら故郷に戻った。
 ところが、そうした苦闘と失意の間にも、モーツァルトは絶え間なく傑作を生み続けていた。当時のパリの聴衆の好みに合わせて書かれた、“パリ交響曲”として名高い「交響曲第31番」や、「フルートとハープのための協奏曲」といったフランス風の典雅な作品も素晴らしいが、母親の死とあい前後して書かれたと考えられている「第8番」と「第11番(トルコ行進曲付き)」の二つの優雅なピアノ・ソナタの、明るい中にも一抹の暗さと悲しさを秘めた曲想からは、その頃のモーツァルトの失意の心情が痛いほど伝わってくる。

自由を求めてウィーンへ

 1年半ぶりにザルツブルクに戻ったモーツァルトは、父親の尽力のおかげで、再びザルツブルク大司教の宮廷で働くことになった。以前より3倍も多い年棒450グルテンで、宮廷楽団の首席奏者兼大聖堂のオルガニストに任命されたのである。
 これでどうやら経済的には安定したものの、広い世間を知ってしまったモーツァルトにとって、ザルツブルクでの仕事はあまりにも退屈なものであった。「ザルツブルクでは椅子やテーブルに聴かせているようなものです」。モーツァルトは彼の音楽への理解が薄いザルツブルクの人々が耐えられなかった。第一反りの合わない大司教のもとに復職願いを出し、再び忍従の日々を送らなくてはならない。「ああ、自由にオペラが作りたい」。
 モーツァルトのこの気持ちはいまや押さえ切れないものとなっていた。そんなところへミュンヘンの選帝候からイタリア語によるオペラ・セリア(生歌劇)《イドメネオ》K.366の依頼が入った。モーツァルトが喜び、舞い上がってミュンヘンに飛んで行ったのは誰の目にも明らか。だがコロレドはおもしろくない。ウィーンに用事で出たさい、滞在中のドイツ館にモーツァルトを呼びつけた。このドイツ館は、ウィーンのシュテファン大寺院からすぐ近くに現在でも当時の姿をそのまま残している。
 ここで今まで鬱積していたモーツァルトの大司教への憤懣が、一気に爆発することになる。モーツァルトとコロレドはついに大喧嘩。モーツァルトはクビになり、以後自立した一人のフリーの音楽家として生きていかなくてはならなくなった。25歳の春のことである。

コンスタンツェとの結婚

 モーツァルトのウィーン生活が始まった。これから亡くなるまでの足かけ10年というもの、彼はウィーンの中心をあちこちに住まいを移しながら暮らしていく。その頃モーツァルトは一人の女性に心を奪われ結婚を考えるようになった。その女性とはなんと、皮肉なことに、かつて失恋の手痛い傷を彼に負わせたアロイジアの妹コンスタンツェである。ウェーバー一家は、モーツァルトがウィーンに来る少し前に、ウィーンに出てきて、下宿屋を営んでいた。アロイジアはすでに俳優のランゲと結婚していたが、モーツァルトは、このウェーバー家に下宿して、その妹たちと同じ屋根の下で暮らしているうちに、コンスタンツェに恋してしまうのである。コンスタンツェも歌手であったが、姉アロイジアほどの才能はなかったらしい。ウィーンで再会したのも、モーツァルトとウェーバー家とは縁があったということであろう。そして、モーツァルトとコンスタンツェの二人は1782年8月4日、聖シュテファン教会で結婚式を挙げた。時に新郎は26歳、新婦は19歳であった。だが、故郷の父レオポルトはこの結婚に最後まで反対していた。当のモーツァルトは感激でいっぱい。結婚式の最中に胸が熱くなり、涙するほどだった。
 さて、精神的によりどころができたモーツァルトはこれからが正念場。代表作といわれる作品を次々に生み出していく。ピアニストとして演奏会を開かなくてはならない。ピアノを教える仕事もある。楽譜の出版の交渉もある。かねてからの夢だったオペラの依頼も入ってきた。とにかく多忙な日々だった。「ウィーンは僕の音楽を一番理解してくれる」と、ごきげんな毎日だった。コンスタンツェとの間に子供も生まれた。

充実した日々

 ウィーンでモーツァルトは成功した。予約演奏会には人がたくさんやってきて、売れっ子の曲を楽しむ。モーツァルトは次から次へと作曲した。ドイツのオペラ−ジングシュピールの依頼を受け《後宮からの逃走》を作曲した。これは当たった。みなぎる生気は、穏やかに整えられた当時のオペラの中にあって際立っていた。この曲はグルックをはじめウィーンの大衆に高く評価された。
 モーツァルトはあらゆるジャンルの曲を書き、しかもその全てが美しい旋律で綴られ、極上のワインのように喉ごしまろやかな味わいを示してくれる。とにきはキリッと冷えた白のごとく、姿勢を正すような思いにさせられるフレーズを伴い、またあるときはコクのある赤のように、情熱的なリズムで迫ってくる。あるいはふんわりと心が豊かになるロゼの色合いも持っている。
 モーツァルトの3大オペラの一つ《フィガロの結婚》が作曲されたのは、ウィーン生活が軌道に乗った4年目のこと。現存する「フィガロ・ハウス」で書かれた。貴族を痛烈に風刺するこのオペラは初演から大変な人気を得た。このころ様子を見に来たレオポルトも、息子の活躍を目の当たりにして満足して帰って行った。しかしこれがモーツァルトと父との最後の逢瀬となった。父の死に遭遇したモーツァルトはちょうどオペラ《ドン・ジョバンニ》の作曲の最中だった。これはデモーニッシュなドラマ展開で、それを支える音楽はアリア、アンサンブルとも秀逸。モーツァルトは私生活を作品に反映させる作曲家ではなかったが、これだけは父の死に対する無念の気持ちが現れているようだ。そして最晩年の傑作《魔笛》は死の2ヵ月前に完成。当時モーツァルトは体調が思わしくなく、すでに死期が近いことを意識していたにも関わらず、この作品は底抜けな明るさと軽快な躍動感に満ちている。シカネーダーの台本をもとに書かれたこのオペラは、メルヘンチックな中にもスペクタクルあり道化芝居あり、フリーメイソンの博愛主義への賛歌あり厳粛さもあり、というモーツァルトの全キャラクターが投影された作品。これは「魔笛小屋」というウィーンのフライハウス劇場前の小さな庭にあった小屋で書かれた。この小屋は現在ザルツブルクのモーツァルテウムの中庭に保存されている。

栄光と挫折と

 ウィーンで大活躍だったモーツァルトに斜陽の影が見え始めたのは《フィガロの結婚》以降だった。ウィーンにはモーツァルト以外にも多くの音楽家がしのぎを削っていた。映画『アマデウス』でおなじみのサリエリを始め、天才モーツァルトの存在がおもしろくない人はたくさんいた。オペラ上演に関しても、予約演奏会(当時の貴族や上流階級の市民があらかじめ演奏会の予約をする制度)にもさまざまな形で邪魔が入るようになる。
 そんなモーツァルトに耳寄りなニュースが飛び込んできた。《フィガロの結婚》がプラハで大当たりしているというのだ。モーツァルト夫妻は招待されるや、胸はずませてプラハに旅立った。さらにここでモーツァルトは劇場興業主から新たにオペラの依頼を受けた。《ドン・ジョバンニ》である。
 モーツァルトは《ドン・ジョバンニ》の大半をウィーンで書き上げ、序曲をプラハの南西に位置するドゥーシェク夫人の別荘、ベルトラムカで仕上げた。モーツァルトはソプラノ歌手だった彼女の好意で、1787年この館に滞在し、序曲をたった一晩で書き上げた。ベルトラムカにはいまでもモーツァルトが作曲に使った石の机や楽器が残されている。テイル劇場(現エステート劇場)での初演は大成功だった。
 意気揚々とウィーンに戻ってきたモーツァルトを迎えたのは、大先輩グルックの死の知らせ。グルックは《オルフェオ》などのオペラを作った大作曲家で、ウィーンでは宮廷作曲家の称号を与えられていた。この年にモーツァルトも同様の称号が与えられたが、待遇面ではグルックに到底及ばなかった。
 子供もたくさん生まれたが、次々と亡くなってしまった。モーツァルトの子供で生き残ったのは、生まれた6人のうち2人だけである。モーツァルトはウィーンに移り住んで3年目に、自由と平等と博愛を掲げた秘密結社フリーメイソンに入会している。モーツァルトは晩年になると、この会で知り合った友人プフベルクに幾度となく借金の申し込みの手紙を書く。「敬愛する同志であり友人であるあなたに見捨てられたら、破滅してしまいます。どうかほんの少しでも結構です」。

魂が浄化するような晩年の作品

 1788年に入ると、モーツァルトの人気は急速に衰え、収入も減り始めた。予約演奏会に来る人は少なくなり、新作の売れゆきも鈍ってきた。この年モーツァルトは「交響曲第39・40・41番」の傑作後期3大交響曲を信じられないほどの短期間にまとめて作曲している。演奏するあてがあったのか、なかったのか・・・・・・。
 32歳頃から、モーツァルトはすでに体の調子が相当悪いことを自分でも意識していた。妻のコンスタンツェも足の治療の為に近郊の温泉保養地バーデンに行くことが多くなった。その出費もかさむ。借金も雪だるま式に増えるばかり。それでもモーツァルトは愛するコンスタンツェには、優しい言葉を並べた手紙を送り続けた。旅先からウィーンの自宅へ、そしてコンスタンツェの療養先へと。「最愛の妻よ、これっぽっちの送金でがっかりしたかい。君が不自由なく楽しく暮らせることが僕にとって最高の喜びなんだ」。
 モーツァルトは必死で仕事をした。1789年にはベルリンで御前演奏をし、ポツダム、ライプツィヒにも足を延ばして演奏会を開いた。この年には皇帝からオペラ《コシ・ファン・トゥッテ》の話が持ち込まれた。モーツァルトはさぞうれしかったのだろう。友人を招いて祝宴をあげている。1790年初頭、ブルク劇場で行われた初演は成功したが、この後音楽に理解のあった皇帝ヨーゼフ2世が死去。ウィーンの宮廷の反モーツァルトの空気を、ただ一人で抑え込んできてくれたこの皇帝を失うと、ウィーンではモーツァルトの命運も尽きたと言ってよいだろう。その後を継いだレオポルト2世は、ひどく事務的で、モーツァルトは取りつく島がなかった。またまたモーツァルトは不遇になってしまった。
 モーツァルトは死の年の初夏にコンスタンツェの療養先、ウィーン郊外のバーデンを訪れた。そして彼女に親切だったバーデンの教区教会の合唱指揮者を務めていたアントン・シュトルに感謝の気持ちを込めて美しいモテット(宗教曲の一種)をプレゼントした。《アヴェ・ヴェルム・コルプス》はたった46小節からなる短い曲であるにも関わらず、その天上の美しさはモーツァルトが現世の衣を脱ぎ捨ててしまったかのようだ。

レクイエム

 モーツァルトがその絶筆となった《レクイエム》(死者のためのミサ曲)の作曲を引き受けたのは死の年の1791年7月頃だったといわれている。ある日、彼の元に、灰色の服を着た、痩せて背の高い、気味の悪い使者がマントで顔を隠して訪ねて来た。依頼者の名も伏せている。その頃のモーツァルトは、オペラ《魔笛》の作曲に追われ、しかも健康にむしばまれはじめていたが、その謝礼がかなりの額だったことから、無理を承知で引き受けた。その当時のモーツァルトは、借金に追われ、文字通り床を舐めるような貧乏生活を送っていたからである。次第にモーツァルトの病状は悪くなっていき、自分の死が遠くないことを予感した彼は、妻のコンスタンツェや弟子のジュスマイヤーに向かって、時々こう言っていたという。「この曲はね、僕自身のために書いているんだよ」。11月も半ばになると、ついに彼は、もうベッドから起き上がれないほどの状態となった。日ごとに身体の衰弱が進んでくなかで、彼は、それでもこの曲の作曲を止めようとはしなかった。
 死の前日の12月4日午後、友人たちがモーツァルトを見舞うとモーツァルトは、ベッドにスコアを持ってこさせ、いつものように友人たちと一緒に、書きかけの《レクイエム》を歌った。筆は〈ラクリモサ(涙の日)〉の8小節で止まっていて、モーツァルトは、その箇所までくると、激しく泣き出してしまったという。
 もうこの時、彼は、この《レクイエム》を完成することができないことをよく知っていたのであろう、見舞いの客が帰ると、モーツァルトは、弟子のジュスマイヤーを呼び寄せ、この先をどのようにして書いていくかの指示を与え、それから数時間後の1791年12月5日午前0時55分ついに神に召された。まだ35歳という若さであった。こうして、他人の為に書くべき《レクイエム》は、自分の死を弔う《レクイエム》となったのである。
 葬儀は、翌12月6日の午後3時、聖シュテファン教会で行われたが、家には全く蓄えがなかったので、最下級の葬儀が営まれ、遺体は、市の外れにある聖マルクス墓地の共同墓地に埋葬された。この時、コンスタンツェは、夫の死によるショックで寝込んでしまい、野辺の送りには加われなかった。また、会葬者のうちで誰一人としてその埋葬に立ち会った者はなかった。墓掘り人でさえ当時のことを覚えている者は一人もなく、モーツァルトの眠っている場所は、永遠に誰にもわからなくなってしまったのである。おそらくこのあたりであろうと思われる場所に、後になって墓標が建てられた。

【参考文献】
・伊熊よし子 著 『決定版 モーツァルトのすべて』 ポリドール株式会社
・石井宏 著(1990年) 『はじめてのモーツァルト』 株式会社講談社
・志鳥栄八郎 著(1991年) 『志鳥栄八郎のモーツァルト大全』 株式会社共同通信社
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